編集後記(コピーについて)
パソコン通信の基本は情報伝達である。つまり情報のコピーであり、アプリケーション等のアップロードやダウンロードも、純粋な情報のやりとりに過ぎない。情報をもらった側は、その情報を元に、元のアプリケーション等と寸分違わぬものをメモリーやハードディスク上に再構築できる。パソコン上のアプリケーションの構築では、実質的な原料がいらないから、完璧なコピーが実現でき、問題無くダウンロードされたプログラムは実行できるのである。
コピー機の原理も、紙面の情報をスキャンして、別の紙面に別のトナーやインクでその情報を再現することで、紙やインクがコピー元と同じであれば、ほぼ同じものがコピーの結果として出来上がる。
コピー機がもっと進化したらどうだろう。紙質やインクの成分までスキャンできて、その成分を再生できるようになったとすれば、原料さえそろえてやれば、完璧な偽札もコピー機で作成できることになる。ただ、そのような技術が実現すれば、コピーされる側とコピーが、全く見分けがつかない(おそらくアイソトープの半減期による年代測定によっても誤差の域を出ない)ことになり、本物とコピー(クローン?)の差は、認識できないことになるだろう。
コピー技術がさらに進化したらどうだろう。デンプンさえ人工的には合成できない現時点を考えれば、『夢のまた夢』ということになるだろうが、原子やそのエネルギー状態までもスキャンでき、再構築できるような技術が確立された場合は、羊や牛のDNAを介しての受精卵によるクローンどころではない。原理的には、その生命体と全く同じ生命体が、クローンとしてコピーできることになるはずである。
素粒子レベルというもう一段階上のレベルのコピーが実現できるとすれば、今まで不可能と思われていた錬金術さえ実現できるだろう。じゃあ、そのときに生命体のコピーは?原子核や電子のエネルギーレベルまで忠実にスキャンでき、再現できるコピー機が出来たならば、それさえも可能なはずである。そうなったときに、本物と偽物の差異はどういったところでつけるのか?ちょっと考えると、自分という存在のアイデンティティーが、『コピー元である自分』側に保持されるか否かがはなはだ疑問になり、『自分と全く同じものが容易にコピーできるなら、自分が抹殺されても、自分のコピーが残っていれば、自分自身が一個だけの生命体として存在していたときと、全く違いはないのではないか』と考えてしまう。本物を抹殺して、その情報を別の場所に再現すれば、情報伝達による瞬間移動が出来るはずなのである。『どこかが間違っていて欲しい』といった私自身の個人的な思いは別にして…。 (森 公宏)